生命の政治学 広井良典

あらすじ

 従来、別個に論じられてきた、福祉国家社会保障環境政策エコロジー生命科学生命倫理上の諸課題を、その原理に遡りつつ統合的に考察することで、生命/生活を貫く新しい人間理解と社会構想を提示する。グローバルな視座と、サイエンスとケアを媒介する臨床的次元も織り込み、「定常型社会」の構想を確かに進める。

 

 資源の限界が明らかとなった世界で、成長を志向し続けること社会のあり方に疑問を呈し、それに代わるものとして「定常型社会」が提示されている。そこでは、物質的に充足した社会では個人がその単位となるが、しかし一方で脆弱な一面を持つその個人を補助する政府のあり方が理想とされる。社会変容に合わせて変化する個人の生き方にまで言及されていて非常に面白かった。

 

 面白かったところ

  • アメリカの医療分野への基礎研究支援

 第二次大戦中に医学研究上の進歩(ペニシリン臨床応用など)が戦争勝利にもたらした影響が極めて多いかったことから、アメリカでは戦後医療分野への政府による資金供給が年々増加していた。一方で、国民皆保険の実現には至らず、医学研究には巨大な公的支援、医療保障についてはミニマムな公的関与という戦後アメリカの医療政策の基本方針が確立された。

 つまり、最高の医療の開発に力を入れいる一方で、その結果を享受できるか否かは個人の富裕度に依存する体制が出来上がった。

 

  • 冷戦時代にアメリカは膨大な軍事費を支出、日本やヨーロッパはその傘のもと独自の政策を展開することができた

 日本は建設国家とも呼ぶことができ、ヨーロッパは福祉国家的なあり方を追求した。

 

 右は生命科学研究を人間性の冒涜であるとし、左は人間の平等を重視するあまり、ひいては優生学的思想につながりうる生命科学研究に懐疑的な立場をとる。

 

  • リベラルの捉え方の違い

 保守主義自由主義社会民主主義の順に新しく、左寄りの思想であり、大きな政府志向。アメリカでは保守ー自由の対立が、ヨーロッパでは自由ー社会民主の対立が生じているため、米欧でリベラルの捉え方は違う。

 

 保守主義は伝統的な秩序や価値を重視。家族関係、人間と自然との関係とか。これらに新しい技術が介入するのに懐疑的。

 自由主義は個人の自由を価値判断の規定におく。基本なにやっても自由。

 社会民主主義は、行き過ぎた自由主義の結果生じる格差を公的部門の介入で是正しようとする。平等重視。産業化に伴う行き過ぎた自然、生命という価値の侵食に対し生成された環境主義/エコロジズムと近年融合したり。

 保守ー自由の対立は産業化に伴う自由な経済活動の結果生じ、これが原因で生じた格差是正のために自由ー社会民主の対立が生じた。

 

 冷戦期に市場経済アメリカ)と共産主義ソ連)の対立の間で修正資本主義として発達した福祉国家的経済システムは、冷戦中は資本主義グループに一括して括られたため、その差異が注目されなかった。

 

 接近の要因として筆者は、高齢化と低成長という状況の類似、特にヨーロッパでのEUに見られるようなグローバル化の進展、制度移転をあげている。現金給付の割合が低下し、社会サービス(かつては家族が担っていた役割)の割合が上昇するという傾向が見て取れる。

 

 筆者はこの原因を核家族(女性が流動的な労働力として存在)と会社という形態、公共事業に求めている。公共事業は失業保険かつ雇用拡大を担っていた。がこれが原因で逆に社会保障は拡充されなかった。公共事業は、労働生産性向上により生じた失業者を需要拡大によりカバーし、経済成長を続け、労働生産性向上をもたらし…というループを前提としており、成長が維持できない社会においてはこれが当初期待されていた役割を果たすのは困難である。

 成長を前提としない解決策としては、失業を自然な準備期間として認識すること、労働時間を減らすこと、ジェンダー間の時間配分など。

 

 この対策として、社会保障に使う目的で税金を導入し、企業への負担を減らすことがある(環境税とか)。これは、人に税をかけるという考え方から脱却して資源に税をかけるという思想転換をベースとする。

 

 宗教改革により教会等庇護を失った地域では国家が教会に代わるものとして早期から社会保障的なことを担うようになった。その影響が残っていると考えられる。

 

  • 人間を苦しめる疾患が感染症から生活習慣病などの慢性疾患に移行するにつれ、疾患の原因となる物質を除去すればいいという生物医学的モデルから、患者への心理的、社会的サポート等も含めたケアを提供する医療へと需要が変化している。アメリカなどでは、このケアの提供を評価する際の尺度として、時間を用いている。

 

  • 近年、自然との関わり合いを通じたケアの必要性が唱えられている。この根拠として、本来人間は自然を志向するものであるというバイオフィリア仮説、「病いは気から」を科学的に証明している精神免疫学からの知見、約3万年前から人間の遺伝子はほとんど変化していないのにもかかわらず急激に変化する環境に適応しきれずに疾患が生じている「病のエコロジー」という考え方がある。

 

  • 日本人の死生観は3層からなる。この世界の至る所に死者の魂が存在しているとする原・神道的な層、現世とは隔絶された場所に死後の世界を想定する仏教的な層、死は無であるとする唯物論的な層である。前二つは明らかに矛盾しているにも関わらず、日本ではそれが深く問われることなく並存してきた、と柳田國男は指摘している。唯物論的な考え方は戦後高度経済成長期に急速に広まった。この理由として筆者は、戦前の国家神道への反省から死や宗教がタブー視されたこと、経済成長の中で生の拡大が重視されたこと、欧米化の中で伝統が棄却されたこと、科学的であることが規範とされたことを挙げている。

 

  • 近代科学の中心となるコンセプトは、物質→情報→生命という形で展開してきた。20世きが情報の時代で、生命は物理、化学的に捉えられ、解明されてきた。だがこの過程は、結局「生命とは何か」という質問には答えられていない。以上のような点で生命を語っても結局生命と非生命の違いは複雑さに帰着されうるからだ。今後、宗教と科学の狭間で、生命とは何か問われることとになるだろう。

 

  • 日本では戦後社会民主主義的考え方が受け入れられなかった。社会民主主義とは、自由を求める市民の間拡大した格差を、旧来の伝統的制度への立ち返りではなく、国家の積極的な介入によって是正していこうとする態度ある。受け入れられなかった理由として、戦前の超国家主義への反省から、左派が国家に権力を持たせて高い税をとらせ分配させるあり方に否定的であったことがある。

 

  • 生命倫理の問題は政治哲学の問題とは独立ではない。例えば胚細胞研究において、自由主義下では研究も個人の自由で行われるべきとされるが、保守主義社会民主主義はそれぞれの理由からこれに懐疑的なスタンスをとる。この考え方は、ともすれば末端の技術的問題として処理されがちな技術開発や研究の是非についてより大局的な視点を持つべきことを促すものであり、個々人が確かな判断軸を持った上で決定するべきことを主張する。

 

  • 遺伝子技術と相続は、共に「個人は生まれた時点で共通のスタートラインに立てるか」という論点で密接に関係している。自由主義的考え方では、個人は全く真空に生まれたち、その後の機会は平等に与えられるべきであるとするが、しかし個人は家族的な存在であるため上記のような背景をそれぞれ持つことになる。これを何らかの方法により是正するためには、福祉国家など公的機関が個人に介入するべきというパラドキシカルな事態が発生する。

 

  • 現代の科学は線形的ではない。原因ー結果のモデルで説明できないことが増えてきている。その結果、専門家が必ずしも一般の人より多くのことを知っていて多くの現象を予測できるという前提は崩れ去り、また現象を予測しコントロールしていこうという科学の方向性も維持できなくなっている。

 

  • 筆者が思い描く定常型社会は、高齢化に伴う人口、ひいては需要の定常化、及び資源の限界が原因となって起こるとされる。また、「時間の消費」で特徴付けられる。かつては、物質を消費するだけであった我々は次第に情報を消費するようになり(例えば、服を着られるかどうかの観点で選ぶのではなく、その服の模様やロゴ等で選ぶ)、今度は時間を消費するようになるというのだ(余暇や学習)。

 

  • 環境主義エコロジズムは、産業化が高度に進んだ結果顕在化した自然や環境破壊に歯止めをかけるべきとして登場した思想で、伝統的な価値観へ回帰しようとするという点では、保守主義に類似している。環境主義エコロジズム保守主義を分けるのは、前者は個人の自立や尊厳に価値を置くことが多い一方後者は伝統的な共同体に価値を置くという点や、出自が異なるという点である。

 

  • 物質的豊かさが実現され、経済的理由からの家族などの共同体的結びつきが不要になると、社会は自ずと「個人」が単位のものとなってくる。ところが「個人」は脆弱な面を持ち合わせており、共同体的な補助を必要とする。そこをカバーするものとして社会民主主義的な国家が求められる。今後実現するであろう定常型社会では、社会民主主義であるだけでは不十分で、環境主義/エコロジズムと結びついたものであること、単純な大きな政府型であるのではなく民間部門を重要な構成要素として位置付けたものであることが求められる。

 

  • 定常型社会においては、高齢化や時間を消費するという発想から、これまで人生の前半に関わるとされていた教育は「生涯学習」の呼称が示すように人生後半にも重要な意味を持つようになり、人生の後半に関わるとされていた社会保障は結婚、就職、失業などの面で人生前半に関わるようになるだろう。また教育、科学、研究は専門家により独占されている状態から離脱し、個人が娯楽として消費するような性格のものへと変化する可能性がある。物質的欲望が基本的に満たされている社会においては知的な探究こそが人間にとっての最大の悦びになると考えられるからだ。ただしここでの教育や研究の目的が国際競争力の醸成となると再び社会は資源の消費や成長への依存へと歩み始めることになり、定常型社会の理念に矛盾することになることに留意する必要がある。